氷狼の遠吠え

リュドラの住む地域の冬は寒い。大陸全体が北に位置していることもあれば、その中でもリュドラ達が暮らしているのは海沿いに面した国土だ。したがって海からやって来る冷たい風は一足早い雪をもたらす。
「こんな感じかな、それにしても師匠は遅いなぁ……」
防寒具をまとい、雪かきに精を出す少年の背には、ファーの付いた8本の触手。特製の防寒具を身にまとったハーフスキュラの少年リュドラは家から大通りまでの雪かきを終え、大きく伸びをした。

今日は師匠であるリリの仕事納め。この日を境に新年を迎えるまでは一歳の仕事を取らず、家に引きこもって春を迎える。それが例年における師匠の行動である。
まるで『冬眠のようだ』と言われても、彼女にとって寒い中での仕事はドラゴンやリヴァイアサンといった大型幻想生物と戦うよりも苦痛を強いられるのだから仕方がない。

そんなリリを迎えるのが弟子であるリュドラの勤め。だが……。

「おかしい。もう帰ってきてもいいはずなのに」
日が真上から少し傾き始めてもまだ帰ってこない。すでに掃除と洗濯を済ませ、雪かきもした。例年なら早々に帰ってくるはずのリリだが、一向に帰ってこないのは不安でならなかった。
「もしかしたら、途中で襲われでも……いやいや師匠のことだから無いとして、確か今日ってどこに……」

リリの予定が記されたボードを確認すると、どうやらエミリの家へ向かったとされている。
記憶が正しければ、エミリの済む村は冬の間立ち入ることを許されていない。ますますリュドラの白い肌に青みが差す。
「まさか……」

リリ・F・グラウシェラスは大陸きっての魔導師だ。1対1は当然のこと、集団で相手をしても十分勝てる程の実力を持っている。容姿も優れーー変態と言って差し支えない人格すら目をつむれば誰もが憧れる人だ。
そんな彼女とは言え自然に勝てるかといえばリュドラにとっては不安しか無い。もし足を滑らせ、怪我や凍りつきでもしたらーー。

「どうしようどうしよう。連絡のとり方もわからないし、こんなときは、ええと……」
しばしウロウロと考えこむも、良い答えが見つからない。このまま待つべきか、それとも向かうべきか。リュドラは数分その場を歩きながら悩み、そしてーー。

「よし、出発です!」
行くことに決めてからの行動はとにかく早かった。
ランタンに長靴。服こそ動物の毛を服の各所に施した暖かなものになっているが、動きやすさを重視してのことだ。重すぎて遭難しては意味が無い。
「エミリの村までは何回も行ったことがあるし、多分そこまで迷いはしないはず。とにかく家まで向かってみようと」
そう考え、リュドラは雪を払った道を経て禁足の村へと足を運んでいった。

「道がやわらかいし、そっと、そっと……」
道があっていれば半日もかからない、2時間あれば十分な道のり。しかし、雪に埋もれた道は行く道をも阻む。
一歩歩けば深く足がハマる道は、転倒すれば簡単に埋もれてしまいそうになる。
慎重に足を運び、木々を抜け、遠鳴りの音を聞きながら登っていた坂を下る。
「天候が傾いてきたのかな? とにかく急がないと」

そして村に到着する頃には、空ははすっかり灰色の雲に覆われていた。
広大な村の景色は雪の大地に染まり、木々は白一色に覆われ、人は1人も居ない。それが却ってリュドラにとって不気味さを醸し出していた。

「なんだか怖い……天候も悪いし早くエミリの家に向かわないと」
雪を踏みしめ、先を急ぐリュドラ。既に空からは雪が降り始め、風も出始めていることが少年の足をさらに焦らせる。
エミリの家が見えた頃には風と雪はさらに強さを増し、軽い吹雪に見舞われていた。
寒さは一層少年の体から熱を奪っていくが、まだ耐えられる。そう思っていた。
「もうすぐ、もうすぐで大丈夫なはず。急がないと!」
そう思い、踏み出した足が何かに取られ、その場に雪の人型を作る。
「あたた……木か何かかな? 風も収まってきたし、なんだかーー」
リュドラが良い雰囲気を察したその瞬間、強い突風が立ち上がろうとしたリュドラの身体を打ち据えた。

「ひっ!? な、なに、つめたーー」
さらにもうひと吹き。まるで氷の息の如き風がリュドラを包むと、口が閉じなくなる。
ウォゥ、ウォゥと甲高い音とともに、まるで身体を覆うように氷の膜が張り出し始めた。

「(ま、まって……)」
リュドラの嘆願を無視するかのように、3回、4回。風の勢いは間隔を狭めながら強く、長く吹き付ける。
「(さ、さむい、ねむたい……)」
ごうごうと響く風の中で周囲は白く、暗く染まり、いつしかリュドラは景色の中に埋没していった……。

―――
――

「気がついた?」
混濁する意識の中、リュドラは聞き慣れた声に目を覚ます。
「あれ、エミリ――」
「エミリじゃないわよ、なんで来たの?」
「……師匠がまったく帰ってこなくて、予定にエミリの村が」
「それなら多分まだ酒場よ。大人どもが『氷狼の遠吠え』にかこつけてお酒飲んでる頃だし」
「氷狼の遠吠え?」
「……納得したわ、知らないからそんな格好で来れたわけね」

エミリは頭を抱え、呆れつつリュドラの頭に熱いタオルを載せる。
熱さでジタバタと慌てる中、意に感せず話を進めた。

「『氷狼の遠吠え』はね、この村に訪れる冷たい風のことよ。天気が暗くなって風が止むと、山から鳴き声とともに氷狼の息が吹きつけられる。すると木々はあっという間に凍ってしまうの」

リュドラがエミリに助けられたのも、偶然の産物だった。
晴れ間が見えたことで窓を開け、新たな木が1本増えていたことに気づかなければ、春がくるまでリュドラはこの村で凍りついたまま過ごしていただろう。
「酷い有様だったわ。呆然としたまま真っ白に凍りついてさ。いかにも「なにが起こったの」って顔してるの。防寒着もはだけてたし、まったく……」

無事でよかった。銀に近い色艶のツインテールをゆらし、リュドラの顔からタオルを取り払う。
熱で赤くなった顔を手で覆い、リュドラは返す言葉もなかった。

「ごめん、ありがとう。助けてくれたんだね」
「別に、リリ師匠が来るまで放置してても良かったけど死んでも困るからね。服は干してるから乾いたら着替えなさい」
「そうする――ん?」
体が温まり、感覚が戻りつつある身体に妙な違和感を覚える。
何かを無くしたわけではない。服に至ってはえみりの借り物とはいえ、そこまで女の子っぽいものではない。ただし――。

「あああ、あのこれって」
「……下着。持って帰っていいから後で洗って返しなさいよ」
「~~~~っ!!?」
下着に限ってはエミリが使っていたものを着せたらしく、その事実にパニックを起こすばかりだったという。

その後、リュドラはリリに怒られることも覚悟していた。だが、当のリリがベロベロに酔っ払ったままだったため
しばらく帰れず、結局元の村に帰ったのはリュドラが村を出た次の日だった。

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